西本願寺と東本願寺

 なぜ本願寺には西と東があるのですか?

 

 お参り先でよくこの質問を頂きますので、その歴史について少し紐解いてみます。

 

 本願寺の起源は親鸞聖人の廟所なので、当然ながら元々本願寺は一つでした。ところが江戸幕府が始まった直後、

一六〇二年に、徳川家康が深く関わる中で、本願寺は東西に分かれました。

 これには様々な歴史的背景が深く関わっています。

 

 石山本願寺の 建立 

 

 東西分立の約百年前、一四九六年、本願寺第八代宗主の蓮如上人は自らの隠居所として現在の大阪城の位置に「石山御坊」を建立しました。

 一五三二年、京都山科にあった本願寺が焼失したことにより、本願寺は大坂の石山御坊にその機能を遷すこととなりました。「石山本願寺」の誕生です。石山本願寺は水都大坂の地の利を活かし、広大な寺内町として大発展を遂げます。

 

  信長との闘い

 「 石山合戦 」

 

 大坂に本願寺が遷って約三十年後。時は戦国の真っ只中。日本における貿易や交通の要所となるまで発展した石山本願寺をどうしても手に入れたい人物が現れました。戦国の風雲児、織田信長です。

 信長は本願寺に対し、莫大な額の矢銭を要求するなど、不条理な要求をつきつけてきますが、当時の宗主、本願寺第十一代の顕如上人は、最大限にその要求に応じました。

 一五七〇年。いよいよ信長は、本願寺に対し破却する旨を通告してきました。

 これを受け、顕如上人は苦悩の末、自衛のための蜂起を決意します。武田氏など反信長の諸大名にも根回しをした上で、全国の門徒衆に檄文を出し、信長に対しての徹底抗戦を呼びかけたのでした。ここに以後十年余りに及ぶ「石山合戦」が始まったのです。

 本願寺は、最初善戦しますが、反信長の諸大名たちが信長に攻め滅ぼされる中、徐々に劣勢に立たされます。後半は、最強水軍を擁する毛利氏や紀州の雑賀衆の支援などにより、四年にも亘って籠城戦で信長軍の攻撃を何とか凌ぎました。ところが信長の巨大鉄甲船の登場で、さすがの最強毛利水軍も圧倒され、これを期に支援は絶たれ、事実上本願寺の命脈は尽きました。

 

 和 睦 ? 抗 戦 ?

 

 開戦から十年後の一五八〇年。籠城戦ももはや限界と判断した顕如上人は、信長が朝廷を通じて提案してきた「本願寺が大坂を七月までに退去すること」を主な条件とした講和を受け入れることとしました。

 ところが、顕如上人の長男、教如上人は、徹底抗戦を訴えます。

「親鸞聖人の御座所である聖地を信長に踏み荒らされるわけにはいかない」

と籠城を呼びかける手紙を各方面へ認めました。これを「大坂抱様」といいます。

 顕如上人はこれを知ると

「大坂抱様は宗主たる自らの意向ではない」

との書状を、自ら各方面に送りました。更に顕如上人は教如上人を義絶とし、七月の退去の予定を繰り上げて四月に石山本願寺を退去し、和歌山の鷺森に向かわれました。信長の性格から考えて、現時点で「本願寺に表裏あり」と思われては大変な事態になると考えられたのでしょう。

 

 石山本願寺の炎上 

 

 一方教如上人は、支援者とともに必死の籠城を続けましたが、万策尽き果て、八月二日についに大坂を退去します。その晩、石山本願寺とその寺内町は炎上しました。信長軍の失火とも、教如上人の指示だったともいわれますが、事の真相はわかりません。

 この時、宗主である顕如上人は三十八歳、教如上人は二十三歳。和睦か抗戦か。

 

この父子の意見の対立が、後に本願寺が東西に分かれる大きな原因となります。

 

 大坂を後にした教如上人は、この後しばらく旅に出られました。なお、講和後の本願寺と信長との関係は友好的なものであったようです。

 終戦から二年後の一五八二年、「本能寺の変」により信長は自害します。信長の死によって教如上人の義絶は解除されましたが、父と子の間に生じた亀裂は、なお大きなしこりとなって残りました。

 石山本願寺からの退去以降、和歌山の鷺森に遷っていた本願寺は、信長の意思を継いだ形で友好関係にあった豊臣秀吉の指示により、鷺森から貝塚、天満へと場所を転々とします。

 

 本願寺は秀吉により

  京都の現在地へ

 

 そして、一五九一年、再度の秀吉の指示と寺地寄進により、本願寺は現在の位置、京都堀川六条へ移転します。秀吉の都市整備の一環だったようです。京都に移転した翌年、顕如上人は五十歳にして激動の生涯を終えられました。そして、当時三十五歳の長男、教如上人が、第十二代の本願寺宗主に就任しました。

 

 顕如上人の譲り状

 

 ところが、翌年の一五九三年。故顕如上人の妻、如春尼が秀吉を訪れ、一通の驚くべき書状を明らかにします。それは顕如上人ご往生の五年前、一五八七年の日付で書かれた顕如上人の譲り状でした。そこには

「後継は三男の准如に 譲る」

と記されていました。准如上人は譲り状が書かれた当時、まだ得度もしていない十一歳の少年です。信じ難いことですが、それが顕如上人の下した最終判断でした。

 秀吉はこの譲り状の真偽を様式や筆跡等含めて吟味した上で認め、既に宗主を継いでいた教如上人に対し、以後十年間宗主を務めた後、弟の准如上人に譲るよう指示し、教如上人はそれを受け入れました。しかし、納得のいかない教如上人の側近たちはその譲り状を偽物だと訴えます。

 それを受けて秀吉は、偽物である証拠を出せないならば、教如上人は即刻辞職し、弟の准如上人に譲るよう命じました。結果、その年より本願寺の第十二代宗主は准如上人となったのです。

 

 教如上人は辞職後「裏方」と呼ばれ、本願寺の境内内で隠居していましたが、教如上人を慕う多くの門徒方は本山参りのついでに、時には直接教如上人を訪れたようです。教如上人も本尊の裏書を施すなど、訪れた門徒に対し宗主時と同様の対応をされており、それに感情を害した准如上人と母の如春尼は、教如上人に対し本尊の裏書などをやめるように通達しました。そのような流れで、准如上人と教如上人の兄弟間に不和が生じたのです。

 

 教如上人と家康 

 

 一五九八年、秀吉が没し、新たな時代に突入する中、宗主を辞してなお支持者の多い教如上人と徳川家康とが頻繁に面会し、急激に接近します。そして関ヶ原の合戦の頃になると、家康はあからさまに教如上人を庇護し、現宗主の准如上人を冷遇するようになりました。例えば、家康が本願寺を訪れた際、教如上人と面会はしたが宗主の准如上人とは望まれても会わなかったことがあったようです。そしてその時の准如上人からの進納品が、本願寺内にて家康の家臣に踏みつぶされるような仕打ちもあったようです。

 

 東 西 分 立

 

 その後いよいよ一六〇二年、教如上人は家康から本願寺を別立するための寺地寄進を受け、本願寺のすぐ東側、烏丸六条の地に東本願寺を建立し、第十二代の宗主に就任したのです。これにより本願寺は東西に分かれ、現在に至ります。

 つまり東西本願寺の宗主は第十一代目までは同じで、

十二代目から分かれることになったのです。

 ちなみに、家康の重臣であった本多正信は、熱心な真宗門徒でした。秀吉の死後、教如上人を宗主に再任する意向であった家康に対し正信は

「本願寺は既に秀吉によって表方と裏方に分立されているから、今更表方(准如上人)を辞めさせるよりは本願寺を別に建てて勢力の分断を図ればどうか」

と進言し、家康がそれを受けて東西分立に至ったとも伝えられています。

 なお現在、西本願寺の門主は第二十五代の専如上人、東本願寺(正式には真宗本廟)は第二十五代の淨如上人で、東西本願寺は、お隣同士として活発な交流があり、親鸞聖人の浄土真宗を社会に開いていくために、切磋琢磨しながら共に活動しています。

※参考文献

『本願寺史』『本願寺年表』

 (本願寺史料研究所編纂)

『季刊せいてん』など